手当たり次第サークル追加大会なGoogle+の現状から感じること

現状のGoogle+の手当たり次第サークル追加の有様をみると、残念だけど有意なソーシャルグラフを作りたいというGoogleの意図はまだまだ失敗しているとしか言えないと思う。少なくとも今のところ日本では。

もし将来Google+が当たり前に使われるものになったら、それはたぶん「有意なソーシャルグラフのノードである普通の人」がもっとも快適に過ごせるようチューニングされたからってことになりそう。一方的なフォローシステムを自発的にコントロールするリテラシーをみんなが備える猶予期間。フォルダのないGmailのタグに慣れるのにだいぶかかった。

で、それまでTwitter相互フォロー文化のようにGoogle+を使ってきたユーザは、そこで一気にマイノリティになるんじゃないかな。そしてそのアカウントは厳密に個人の人格と1:1で対応するよう制約されているから、そういう自分から逃げられない。現実世界で自我が自分の肉体のある社会にバインドされていて逃げ場がないあの感じ。

Facebookもそうだけど、そういうユーザの人格のユニークな実在性を重視していて、かつ、もしかしたらずっと付き合うかもしれないソーシャルサービスというのは、現実の鏡像になるから、そこできちんと人間関係の構築をしようと思わない人は、リアルな自分のアイデンティティすらもまるごと犠牲にして、刹那的な自己顕示欲を満たそうとしているように感じざるをえないんだ。

もちろん、そこから現実社会にないネットのソーシャル特有の社会性を備えた新世代が現れて、それが実社会へフィードバックされて一般化するというシナリオはありうる。それとこれと、2つの極端なシナリオを想定したうえでの判断ならいいんだけど、そうじゃなくて2ch/mixi/twitterと来たやりかたを疑いもなく「こういうものだ」と思い込んで行動してしまうのは、少なくとも自分は怖くてできない。

注: ここまで分析、ここから主観の垂れ流し。

ちょうどそれは、世界の流れを推理せずただただApple様を疑わない/Google様を盲信する、みたいな姿勢に似てるし、ケータイ文化とはこういうものだとまるで普遍的なものであるかのように信じ、Androidの上にフィーチャーフォンを作ってしまったものが、ピュアなスマートフォンによるTCPでの動画配信に大敗しちゃう、って構図に出てくるドッグフードしてない会議室の登場人物にもちょっと似てる。

これは、あいつらバカだという話じゃなくて、たぶん、人々の集合をマクロ的に見ると個々の思いは平均化されて愚鈍に見える、ってことなんだ。そういうのの中で自分にとって大事なのは、やっぱり、自分の問題として敏感に身体感覚で捉え、つねに構造を把握して未来を予測し、道徳観をロジックから導き出す努力なんだと思ったりする。